音楽とビジネス1

この本を知人に薦めてもらって読んだ。
「CDが売れない時代」の背景に、itunesなどのデータとしての音楽ビジネスの台頭、YoutubeUSTREAMSNSがかつてマスメディアの既得権益だったプロモーションにおいて力を持ってきたこと、などを描いた音楽ビジネスの現代史とも言えるわかりやすくてワクワクする書だった。

そう、ワクワクする内容だったので。
えっとvol.1は感想文とか未来を語るとかではなく、単純に「それ見たことか」的な内容になると思われます。
人によっては不快な内容になるかと思います。

私は音楽がそんなに得意な方ではなく(笑)、演奏技術ははっきり言ってありません。
ただ、好きで好きでひたすらラジオを聴いて、ピアノを弾いて、育った。
だから音楽ビジネスを牛耳っている世の中の仕組みに対して嫌悪感を感じる機会も人より少し多かったのだと思う。
今、その構造が壊れつつあることが愉快でしょうがない。
Webの人だから今起こっている現象にワクワクするのではなく、権力構造が壊れゆくことにワクワクしているのだ。

私の音楽の礎は中高生時代のラジオにある。
(幼稚園からピアノ習わせてもらったのに両親ごめんなさい。)
ラジオもマスメディアと言えばそうなんだけど、正確にはミディメディア(私の造語)だったと思う。特に私が聴いていた局は売れている曲よりいい曲をいち早くリスナーに届けることに情熱を傾けていたと感じている。受け手との距離が最も近いメディアだったと言ってもいい。
私はそれを受け売りして、その中でも自分がキャッチしたものをテレビばかり見ている友人にプロモートしてきた。
当時はまだテレビにもそれなりの力があったけど、いい音楽ということでは早さでも質でもラジオが上回っていた。
やがて私が「いいよ」と言いふらしてたミュージシャンがテレビにも出るようになって、「消費」されていったりした。
私の中ではこの距離が一番よかったんだよな、と今でも実は思っている。「中くらいの」メディア。
(「中くらい」を失うと、結局マスに偏る。あ、この話はvol.2にしたい笑)

そう、私はミュージシャンを商材としか見ていないマス(テレビやレコード会社)を目の敵にしている。
売れているうちに絞るだけ絞りとる商法が大嫌い。
それもこれも「マス>ミュージシャン」の権力構造があるから起こる現象だ。
あなた、マスで流れなくなったら食えなくなるでしょう。ほら作れはよ作れ。の図式。
けれど今なら、メディアは自分で作れる。
Ustで無料で放送もできるし、SNSで営業もできる。CDも自分で作れる。音源データのダウンロードをさせるという方法もある。
(現時点は「食っていく」にはまだ「可能性がある」というレベルに過ぎないが。)

私はマスと言えばJASRACもたいそう敵視している。
私は著作権は当然守られるべき権利だと思っている。
だけどJASRAC著作権の保護機関(なの?彼らは。)としてはお金の流れが不透明すぎる。
だって彼ら権利の主張だけで仕事してないじゃない。
どうしてチャージも取らないちっちゃな飲食店でせいぜい10人ほど相手に好きな曲を演奏することに対して「JASRACに」お金払わなくちゃいけないの?
もしその演奏で権利侵害になるようなことがあったら、侵害された本人にお金払いたいね。
もしその演奏で本人に利益があっても何もいらないし。
この謎の団体が著作権の管理を任せられているのは、ミュージシャンはレコード会社と契約しなくてはCDを出せない。レコード会社がJASRACにミュージシャンはの著作権を預ける。という構造があるからだ。

で。
すごく素敵な歌を歌う友達がいた。(社会的にはちょっと困った人だったけど笑)
私は友達であると同時にファンだった。実力は絶対にあった。
彼はメジャーデビューしてCDを出したい、それが夢で(なぜか東京でなく笑)大阪に出てきた。
そして夢は叶ったのだが、CDを一枚出したきりレコード会社と悶着あって音楽をやめてしまった。
額は言わないけど、正味非道な契約だった。印税もびびるほど微々だった。
そのことも私は根に持ってる。

あと、これはマスの話とは関係ないかもしれないけど、この著ではライブハウスの高額なノルマ制にも触れてくれていて胸のすく思いがした。
ライブハウスの中には結構高額なノルマをミュージシャンに負わせるところが多い。
客が入らなきゃ全部ミュージシャンの責任というわけである。
いや、私としてはライブハウスも存続して欲しいし、特に集客の見込めないミュージシャンには多少の支払い(場所代)を要求してもいいと思っている。
だが、ノルマとしてミュージシャンから金取ってやろうって魂胆はライブハウスとして恥ずかしくないのか、と思う。
それなら不動産業でもやってればいいじゃないか。
「いくらいくらでこの部屋貸しますよ」と何の差があるのか。
ミュージシャンを育てようとか、集客できるブッキングをしようとか、そこにライブハウスのライブハウスたる意義があると思う。
「ライブハウス様ですよ」なんてライブハウスはいらない。
ここにも「ライブハウス>ミュージシャン」の権力構造がある。

権力は、音楽には、いらない。
そして権力に媚びずともやっていく技術の話と知恵の話がこの著では繰り広げられていたのだ。実際、繰り広がっているのだ。
ワクワク。

vol.2を近いうちに。

コミュニケーション

今日行ってきた勉強会は@3pandaさん主催のその名も「パンダの会」
パンダがどうしていつもころころしているのか生物学的に解明しようとする勉強会だった。
うそです。
http://pandanokai.net/event/evt6/index.html

なんでも「これからのWeb」というお題でゲストを二人呼んでるんだけどキャンセルが出て今なら空き席あるんですよ、と聞いて「これからの人生」に迷っているところのWebデザイナーを名乗っている私が飛びついたのです。
「これからのWeb」って。なんて大胆かつ大雑把なテーマなんだ!

詳細な内容はツイッターハッシュタグ#panda006で。

それで私の所感を述べたいのだが、これまでなんて狭い視野でWebを見ていたんだ、と。
「ホームページ作れます」なんていうことが特殊技能でも職人の技でもなんでもなくなった昨今、何で生き残っていくのか。何を売って生きていくのか。
トレンドを追いかけて新しい技術をひけらかして小さい運動場でかけっこするような、そういう時代ではないですよ。そんなことしてても周回遅れで入ってきた有能な若者にあっさり体力で負けちゃいますよ。(この年で思いますけど、体力は自然減少していく資本ですから!資本のあるものが優位に立つのは世の常ですから!)
そういうことを技術畑である村岡さん@bathtimefishもWebに携わる活動家(!)長谷川さん@yhassyも極論的にはおっしゃっているのだと感じた。
一言で言えば「Webを」じゃなくて「Webで」の時代だな、と。
こう言うと陳腐に聞こえるかもしれないが逆説的に言うと、「大事なのはWebそのものじゃないですよ」とも言えるだろう。

その先に何があるのか。
それこそがWebデザイナーを名乗る人の資質になっていくだろう。

そして「Webナンタラ」である前に、私は「顧客の悩み相談室であり、一緒に悩みに共感する人であり、それを何らかの方法で表現し、願わくば解決する人」を目指すべきじゃないかと思った。
(実際問題はWebナンタラの完成度も上げたいし、願わくば解決するためにスマホ対応もWordPressもIE6対応もSEOも必要になってくるのだが。解決するための引き出しは多い方がいい。)
要するに、理解者、表現者としての資質。
ここで言う「表現」というのには何種類かある。
一つは顧客の悩みを表現する力。顧客が上手く言語化できない悩みを汲み取って「こういうことに困っているんですね?」と整理する能力とも言える。
もう一つはそれを表現を通して解決する力。「それを消費者に伝えるためにこう表現しましょう。それはこういうふうに表現すると解決しますよ。」といういわゆるデザインする力。
最後に恐らく多くのWebデザイナーに欠けている、自分が抱える問題を表現する力。「それを実現するためにはこれこれこれだけの技術が必要で、だからこれこれこれだけのコストが必要なんです」と専門知識のない顧客に理解できるように表現する力。
最後の力はとても技術と根気と気力を要する。自分が泣けばそれで済むからと努力を放棄しがちだ。(IT業界にうつが増える諸悪の根源だ。)

コミュニケーションは分かり合って初めて「成立した」という。
自分が相手の言い分を理解して表現するだけでは成立はしていなくて、相手にも自分のことを理解してもらってこそのコミュニケーションだ。

実はこれは別にWebナンタラに限った話ではない。
自分が泣けば済むから、という美学がなぜか日本にはあって、少なくとも私にはあって、これは実際は自分が泣くだけで済んでいないのだ。

泣いている間、するべきことが進んでいない。
進んでいない理由を説明できない。(黙って泣いているから)(そして「オレはお前のせいで泣いてたんだぞ」というフラストレーションをためる)
相手は理由がないのに進んでいないことで、あなたのことを怠慢だと思うかもしれないし、自分のことを軽んじられたと思うかもしれないし、あなたを見捨てて誰か他の人に頼もうと思うかもしれない。
たった二者間でもこれだけの悲劇が起こってしまうのだ。

あなたは一体何人と関わって生きてますか?

「自分が泣けば済む」という考え方こそ傲慢だと気づいてくる。
そんなにあなたは(私は)神様じゃないのだ。

それだけではない。
泣くのをやめれば、Webの世界はこんなにも自由で、あの手この手で表現が可能なツールなのだ。好きなことができる。どんどんできるようになっていく。
私はデザインより断然コンテンツを作りたいね!と思う。(・・・デザインしたくないって意味じゃなくてね。)

「自分のことを理解してもらう」
これはわがままではなくて、あなたと真摯に付きあおうとする人にとって最高のプレゼントだと思う。
相手のことを知って、自分のことを知ってもらって、それでこそいい仕事ができる。
いい人生が送れる。
いい恋愛を経験できる。

というわけで、これからは自分を知ってもらう努力を最大限しますので、お仕事と恋人の方ひとつよろしくお願いします。

PHPマスター様

実はあっさりブログの存在を忘れていました。
そして必要に迫られて書いております。

【質問】
WordPressで書いてるブログの最新記事を、別サイトのサイドバーに表示したいと考えています。(多分、よくあることですよね?)
というわけで、PHPでWPのブログのRSSを取りに行って表示させようとしているのですが。
取得できません。
[別サイトのサイドバーのソース]

                    • -
<?php
  $rssurl = "http://her.her.jp/hershop/feed/";
  //echo file_get_contents("http://her.her.jp/hershop/feed/");
  $rssdata = simplexml_load_file($rssurl);
  $outdata = "";
      $outdata .= "<a href=\"";
      $outdata .= $rssdata->item[0]->link;
      $outdata .= "\">";
      $outdata .= $rssdata->item[0]->title;
      $outdata .= "</a>\n";
      $outdata .= $rssdata->item[0]->description;
  ?>
                    • -

ソース四行目のように $rssdataにsimplexml_load_file($rssurl)を代入しています。
が中身は空です。
実行後のhtmlでは

<a href=""></a>

と見事にrssdataの中身をスルーです。
エラーにもなりません。
ちなみにコメントアウトしていますがfile_get_contentsでは中身が(エンコードは別にして)きれいに表示されています。
というわけでURL間違いなどではないと思うのですが・・・。

PHPのバージョンは5.2.17 サーバーのOSはLinux、動作確認はGoogleChromeでしてます。
理由や対処法をどなたか教えてください。。。
教えてくれたら一杯おごります。




↓解決しました!

原因は一言で言うとsimplexml_load_fileの戻り値であるSimpleXMLElementオブジェクトの仕様を理解していなかったことです。
このSimpleXMLElementはxmlファイルの構造をそのまま持ったオブジェクトなのでxmlのもつツリー構造をそのままたどっていかないと値が取得できないという今回のような結果になってしまうのです。
今回の場合、指定URLのxmlの構造は以下のような構造でした。

<channel>
  <item>
    <link>
    <title>
    <description>
  </item>
  <item>
    ...
  </item>
  <item>
    ...
  </item>
</channel>

ですから

$rssdata->item[0]->link

というのはツリーの構造上正しくないので、そういうデータはありませんよ、というわけでスルーされたんですね。

$rssdata->channel->item[0]->link

が正解です。
戻り値がStringじゃなくてもしかしてArray?Hash?とか思いましたがそんなことはなかったみたいです^^;
私の場合最新の(一番上の)データだけあればいいのでitem[0]でちゃんと取得できました。
あとエンコーディングも違って文字化けしていたので修正後のソースはこうなりました。

<?php
	ini_set("default_charset", "Shift_JIS");
  $rssurl = "http://her.her.jp/hershop/feed/";
  $rssdata = simplexml_load_file($rssurl);  
  $outdata = "";  
  $tmp=$rssdata->channel->item[0];
    $outdata .= "<a href=\"";
    $outdata .= $tmp->link;
    $outdata .= "\">";
    $outdata .= $tmp->title;
    $outdata .= "</a>\n";
    $outdata .= $tmp->description;
    echo mb_convert_encoding($outdata, "SJIS", "auto");
  ?>

というわけで気にかけてくださったみなさま本当にありがとうございました。
飲みに行きましょう!

かろやかに

いろいろなことが始まりだす予感。

バタバタしてたら風が起こる。
風が起きたら空気が動く。
目に映るもの、耳に入る音、口に出す言葉、出会う人、その人が話すこと、すべてが動き出す。
動きに気づいたら。
動いているものを掴む、かろやかさ。
振り回されてみる、かろやかさ。
自分が動く、かろやかさ。
自分で動く、かろやかさ。

こだわりは時に怠慢かもしれない。
100点が取れないから30点を取ろうともしないなんて。
君には何が取れるの。

バタバタしてみる。
かろやかに手を伸ばす。
取れなければもう一度、もう一度。

振り回されてみるかろやかさ。

原発の話2

原発がどんなものか知ってほしい 第2版

先ほど紹介した記事が、デマだと評判が高いらしく、コメント欄で指摘をいただいた。
その点についてはお詫びしたい。
でも「私が言いたいことはそこじゃないんだよなぁ」という話の噛み合わなさがあって、これは私がこの記事に乗っかる形で、自分の言葉を噛み砕かず「これを読んでください」としてしまったところに非があるのだが、モヤモヤが残る。
そういうわけでもう一回書き直したいと思う。

反論記事としていくつか記事を紹介していただいた中で、これが私が言いたいことと近いなぁ思った記事は、原発がどんなものか知ってほしい 第2版である。

まず、前記事で私が乗っかった記事は、原発で二十年働いてきたという平井氏の反原発の主張である。
原発を「造る人」の立場として、現場には素人も多く施工ミスがあって当然だという主張、廃棄物を海に流さなくてはならないから海産物が汚染されているという主張、その後、原発のある土地の人だからという理由で結婚出来ないという差別をも生むと述べている。

それに対して「原発がどんなものか知ってほしい 第2版」では、まずこの文書自体が平井氏の講演を素人の原発反対派がより過激に誇張したものであることを述べている。
その詳細については『Re:原発がどんなものか知ってほしい』全文掲載で修正されている。
そして、その上で

原子力発電にどういう意見を持つかは個人の自由だ。反対することは少しも悪くない。 少なくとも部分的には懸念や不安があるのは、当然だろう。 ただし「この文書を根拠に」反対するというのは、問題がある。 反対するのがいけない、という意味ではない。 反対するのはいいのだが、この文書を持ち出すのはやめた方がいい。』
(*この文書とは平井氏の記事のこと)

と述べている。

いきなり「あなたそれはデマです」と言われると、反原発の人は思いそのものを否定されたような気になる。
その点で、反平井氏の人は損しているんじゃないかな、というのが生まれた感想。
もし原発賛成派でそれの根拠として反平井氏を主張するなら、平井氏を根拠に反原発する人と根本は同じだと思う。

(ちなみに私は平井氏に悪意があるとは思っていないし、「そういう事実(原発建設者に熟練していない作業員もいた、とか、作業場では時間との勝負、とか)」も過剰な表現にせよあったのかもしれないと思っている。
それから反平井氏の主張が嘘だとも思っていない。
多くの人が後押しするのだから本当なのだろう。
ただし、どちらの記述もその人にとっての真実だとは思うのだ。
内部のことを私が知るわけない。
そうだという人の意見を「そうかもしれない」と思うしかできない。)


というわけで、話を元に戻すと、私は平井氏がなんと言おうと反原発派です。
たまたまそれをすごい説得力で後押ししてくれてる(と思ったのが運の尽き!?)のが平井氏だったんですね。

大事なのは、「正しく怖がる」ことだという。
でもこれってすごく難しい。
原子力のことを勉強してきたわけでもない。
被曝経験もない。
原発のある土地で生活したこともない。

ただ、今までの原発事故、特に震災による福島の事故についてはギリギリセーフ(セーフだったのかよくわからないが)だっただけじゃないか、という気持ちを持っている。
特に阪神大震災以前の原発は本当にこれから起こるかもしれない地震に耐えうるのか?
地震といった災害でなくとも人的ミスは前提としてあるものだと思う。
そういったトラブルの時の対策を持っていないなら、原発も持つべきではない。
それから、「そんなに安全なら都心に作ればいいじゃないですか?」という気持ちもある。
国民への絶好のアピールになるではないか。

原発というと理想主義的だが、脱原発は必須事項、緊急事項だと思っている。
代替エネルギーについて私は何も意見できないが。


それからもう一つ、風評被害という二次被害
このことについて、風評する人を責められないと思う。
風評と事実の区別が曖昧だから。
どんな規模の事故だとどの範囲までどんな影響があるのか。一般の人には想像できない。
これはもう、事実をたくさん作って(検査を厳密に綿密に行って)、マスが発表する。
そうすることで縮小していくしかない。

もちろん個人的には加害者になりたくない。
でも原発事故の被害者にもなりたくない。
多分みんな、この二つの間で揺れ動いているんじゃないだろうか。


ここまで書いて10分ほど私はフリーズしていたわけですが、もうこれ「資本主義は正か悪か」みたいな、議論を始めるとずっと平行線で進んでいくような、気が遠くなりました。

というわけで、あくまで一票投じるという形で、私は反原発派です。
検査を通ったものなら元気に食べます。


【後記】またコメント欄でいろいろ話が交わされてますので、コメント欄もご覧ください。

原発の話

【後記:原発の話2と併せてお読みください!】

原発がどんなものか知ってほしい

私はこれまで極力この話題について避けていたように思う。
それはデリケートな話題だからだ。

結論から言えば私は原発反対派だ。
理由は、原子力発電所をうちの隣に建てられたら嫌だから。
感情論だ。

でも、そんなことより、原発で二十年働いていたという平井さんの記事を読んでほしい。(*下記参照)
原発がどんなものか知ってほしい

私はいろいろ語ろうと思っていた気持ちがこの記事を読んで失せてしまった。
デリケートどころではなくなってしまった。
強烈な記事だ。
私が何を話すより、本当のことを知ってもらう方が先だろう。

これでも原発を擁護できますか。


現場で働いてきた人が悪なのではない。
設計した人が悪なのでもない。
風評という名の差別はしたくないと思っている。
だが、原発を稼働させ続けることが悪でないと、言えますか。


⇒*この平井さんの文章に関してですが、強い表現に対して「デマ」だとする立場もあるようです。
その反論の一例としてhttp://regenpatu.jimdo.com/があります。
実際コメント欄でも議論がなされてますので、よろしければコメント欄もお読みください。

映画『フラガール』

時代は石炭から石油へと移り変わろうとしている、昭和40年代。
東北の炭鉱の町。
石炭は黒いダイヤと言われ、男たちは山に入り、真っ黒になって石炭を掘ることに誇りを持ってきたが、時代は容赦なく移ろってゆく。
炭鉱は閉鎖され、炭鉱夫たちは解雇されることになった。
町は生き残りをかけて、温泉を利用したレジャー施設を作るという。その名も「ハワイアンセンター」
炭鉱に誇りを持って生きてきた町の人々は反発する。

一方、東京でスポットライトを浴びてきたにもかかわらず借金を抱えて東北の町にフラダンスを教えにやってきたダンサー。

そして昨日まで炭鉱娘だった、娘たち。


福島県いわき市での実話である。
311の大震災から半年、このタイミングで観たことが大いに影響していると思う。
私はこの映画から「生きる力」というメッセージを強く受けた。

ある者は夢半ばに、ある者はこれまでの誇りをかなぐり捨てて、娘たちはただ前を向いて。
「生きていく」以外に選択肢はない。
夢もプライドも時に抗えないものの力によって踏みにじられることがある。
誇りを奪われ。
大切な人を失い。
故郷を離れ。
でも、生きていくしかない。
それは決して後ろ向きな人生ではなく、むしろこれ以上ないほど前向きな力なのだ。

今東北で起きていることも、これと同じことだと思う。
(そしてこれから私に起こるかもしれないことも)
命がある者は、その生命を生き抜く。
これ以上の何があるだろうか。

そんな力強さをフラダンスというやわらかくやさしいものに込めたのも、この作品の美しさを増していると思う。
生きることの強さとしなやかさと。

想像をはるかに超える(そんな想像でごめんなさい)、いい映画だった。